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社長コラム

恩師の薫陶

研究室の一員となった輝之を待ち受けていたのは、あらゆる話し合いの場における、上田先生からの“質問”でした。

室のメンバーは、自分の発言における“言葉の根拠”を、常に鋭く問われます。


まず「今、あなたが用いた言葉は、一体どういう意味ですか?」と。

そして「なぜ、あなたは今、そういう定義をしたのですか?」と。

さらには「あなたが、確かにそうだと言える、裏づけの体験は何ですか?」と、いった具合に・・・。

それが教室でも、また喫茶店であっても、上田先生とのディスカッションの場には、答えに窮してしまう学生たちの姿がありました。


彼は回想します。

「もう、何もしゃべれなくなってしまうわけ。

一言、言葉を発すると、それがどんな体験にヒモづいているか、ちゃんと説明しなさいと言われる。

自分の“原体験”と結びついていない言葉・・・世に溢れる、そうした内実を持たない言葉は、“伝える力”を持たないものであり、“意味がない”ということだった。

そして、意味がない言葉を用いているというのは、実に、遊んでいるだけだというのが、先生のお考えであった。

要するに、言葉だけが先行してはダメなのだと、徹底して叩き込まれたのだ」と。


上田薫(うえだかおる)氏は、1920年(大正9年)、大阪地方裁判所の判事・上田操と、哲学者・西田幾多郎の長女・彌生との間に、4人兄弟の長男として生まれました。

1942年に京都大学文学部哲学科へ入学した翌年、太平洋戦争における学徒出陣で中国に赴き、現地で終戦を迎えます。

復員・帰国した翌年の1946年(昭和21年)、文部省内に設置された「社会科委員会」の一員として、小学校の学習指導要領の作成に携わります。

そこで、上田氏らの手によって産声をあげた、戦後の「社会科」は、“子どもの切実な問題解決を核心とする学習”を、柱とするものでした。

─── 戦前教育における、体系立てられた内容を順番に学習させる「系統学習」や、“こうあるべき”といった姿勢を教条的に受け入れさせる「徳目学習」は、学ぶ者に対して、旧知の知識を絶対的なものとして受け止めさせ、思考を型枠に押し込もうとするものであった。

人間の尊厳を主張できず、無批判な態度に甘んじて、多くの自己犠牲を生んでしまったわが国の歴史の背景には、こうした旧来の教育が横たわっていたと言わねばならない。

だからこそ、我々がこれまでの歩みを省みて、自ら考え、判断し、責任をもって行動できる人間を育むためには、実生活に深く関わる問題と向き合い、解決に取り組むという体験を通じて、一人ひとりの躍動性を引き出していくしかない ───

それが、精察の末にたどり着いた、氏の信条であったのでしょう。

そして、その信条が不動のものであったことを裏づけるように、あの社会科の設立に携わってから四半世紀を経た当時でも、学生たちと向き合う姿勢には、真に自立した人間を鍛え上げようとする熱意が溢れていました。


こうした師の薫陶の中で、輝之が想起していたもの・・・それは、かつて高校時代に胸を病んだ時のことでありました。

あらゆる言動の背景に、個々の“体験”に基づく“実感”を求めて止まない恩師の教えと、過酷といえばあれほど過酷な状況もない中で、流れに身を委ねる道を断ち、それに抗う道を選びとった“体験”を通じて、彼の中に宿り始めた何物かが、時が経っても色褪せることなく、活力の源泉になっているという自身の“実感”・・・その二つが、実に深く響き合っているのでした。

そうであるがゆえに、著書への感銘を契機に、この人に師事しようと決めた自分の直感は、決して間違っていなかったと、彼は確信を深めるのでした。


しかし、上田先生の教えは、彼の青年期の体験の意味だけを、明らかにするに留まりませんでした。

それは、彼の人生を更にさかのぼり、“未解決のまま”であった、あの児童期における体験の意味までも、鋭く照らし出していったのです。

≪つづく≫

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